北海道宏栄社のはじまり
北海道宏栄社の創始者、川真田義雄氏は、昭和27年に当時上川郡美瑛町で父の営む経木工場で働いていた時に機械にはさまれ、右手の親指1本を残して4本を切断してしまいました。このため現場で働くことができなくなり、翌28年5月、同工場の小樽出張所で販売業務を担当することになりました。
川真田氏が小樽身体障がい者福祉協議会(会員1480人)に入ったのはこのときで、入会と同時に副会長の職を与えられ、同協会の仕事一切をまかされました。こうしたことから身障者の生活実態を知るようになり、一番驚いたのは会員の大部分は定職もなく、「ドン底」の生活をしているということでした。そこで川真田氏はこれらの人に技術を習得させ、働く場所を切り開こうと考えました。6年間あちこちを走り回り、市内山田町14にある市営山田寮の物置を早速改造、昭和34年4月から身障者の授産場として発足、被服の縫製とクツの製造作業にかかりましたが、場所が狭く、昼間でも電灯をつけなければ作業ができず、せっかく集まった人の心もくじけそうになりました。これでは働く人達がかわいそうだと、明るい授産場を新設するために関係機関に働きかけました。
はじめはどこからも「満足にいくか」とバカにされ、力を貸してもらえませんでしたが、小樽市から小樽市色内町の土地を借りることができ、自分の全財産と父明吉さんの援助資金を合わせて、授産場の建設工事を進めました。こうして昭和35年5月、総面積218平方メートルの木造モルタル塗り、二階建ての授産場が小樽市色内町8の42に完成しました。そして、身体障がい者更生授産施設「北海道宏栄社」として発足、各種被服の縫製とクツ製造が18人の身障者によって進められ、その後名刺、はがきなどの印刷作業も新たに行われ作業する身障者の人数も増えていきました。
これが、北海道宏栄社のはじまりです。
以降も川真田氏は事業に情熱をそそぎ、昭和37年の社会福祉法人としての認可、昭和38年のクリーニング科新設、昭和45年のクリーニング工場新設などを実現させ、今日の北海道宏栄社の礎を築き上げました。
川真田氏の熱い想いは、いまの宏栄社に脈々と生きています。
(この記事は、当時の新聞記事などを参考に作成しました。R5.9.29.担当;高田)